コミケで買った岡田斗司夫の新刊。落語デビューの話とか書いてますた。
この人の話はわりと納得できることが多いんですけど。萌えとかに対する違和感を、言葉で表現してくれてストンと腑に落ちる感じ。
でもね、今回のはどうも腑に落ちない。
落語の歴史とか現在の問題点とか、すごいとってつけた感が。もしくはコピペしてきたような。それあんたの言葉で書いてるんじゃないだろうと。まぁ文中で「落語に関する本いっぱい読みました」「あの本にはこんなこと書いてありました」な事言ってるので、実際そうなのかも。まぁ、アニメや漫画を語るときに比べて皮相上滑りになるのはしょうがないかと。
あと、やたらと漫画業界に喩えるのも辟易。「お前の鳥取ではそうかもしれないが」という言葉が何度も頭をよぎりましたよ。
岡田斗司夫の定義する落語。「着物着て正座して面白い話」
これがまず私としては受け入れにくい。ポイントはふたつ。
1.落語を落語たらしめてるのはお話ですよね。
私の落語の原体験は、小学校の図書室に並んでた落語のネタ本。一時期読み漁ってました。
そして、音声メディア。CDだったりラジオだったり。
寄席には行ったことないし、笑点すらもあまり見ない。つまり、文章と言葉でしか落語に接したことが無いのに、それを落語と認識してるのです。
岡田斗司夫のいう落語を、ラジオで聞いたり文章に起こして読んだ場合、それを落語として認識できるかと言うと否ですよね。
2.着物はただの服装でしかないですよね。
ちょいと落語から離れて茶道の話。「お前の鳥取ではそうかもしれないが」という突っ込みは無視します。
私、着物で茶席に入ったことありません。それどころか、鍋やオタマで代用して茶を立てた事すらあります。
それはそれで茶道的には問題ないのです。流派にもよるでしょうけど。
服装や道具にいい品を揃えることができるならそれに越したことはありませんが、代用品をつかったらそれはもう茶道ではない、なんてことはありません。
文中で桂米朝の言葉を引用して「背広を着て、万年筆とライターもって落語ができないか。落語家の自分としては『落語はできる』とはっきり言える。ただし、客がそれを求めていない。」その点に関して、落語の客が問題だってのには同意。
私がやってほしいのは、背広に万年筆にライターを使って落語をすること。それを見せて欲しい。
落語をぶっ壊す、落語の観客には一旦退場してもらうっていうくらいなんだから、背広に万年筆にライターの落語でいいじゃないかと。
ここでちょっと林家木久蔵について。
正月に見た林家木久蔵の落語。昭和初期の映画の話を延々。私にはモノマネ芸にしか見えませんでしたが、一緒に居た人はあれを落語と言うのです。
CMでやってる、洋装で「電子化なんていいんでんしか?」というネタは誰も落語とは言わない。落語ファンにだけわかる何かがあるんですかね。それとも本当に着物だけ?
もひとつ。大使閣下の料理人より。主人公の「フランス料理って何をもってフランス料理って言うんですかね」に対して師匠曰く「俺が卵焼きを作って出せば、それがフランス料理だ。」(仔細はあいまい)
xxだからooだ。って定義づけるのって難しいですね。
この人の話はわりと納得できることが多いんですけど。萌えとかに対する違和感を、言葉で表現してくれてストンと腑に落ちる感じ。
でもね、今回のはどうも腑に落ちない。
落語の歴史とか現在の問題点とか、すごいとってつけた感が。もしくはコピペしてきたような。それあんたの言葉で書いてるんじゃないだろうと。まぁ文中で「落語に関する本いっぱい読みました」「あの本にはこんなこと書いてありました」な事言ってるので、実際そうなのかも。まぁ、アニメや漫画を語るときに比べて皮相上滑りになるのはしょうがないかと。
あと、やたらと漫画業界に喩えるのも辟易。「お前の鳥取ではそうかもしれないが」という言葉が何度も頭をよぎりましたよ。
岡田斗司夫の定義する落語。「着物着て正座して面白い話」
これがまず私としては受け入れにくい。ポイントはふたつ。
1.落語を落語たらしめてるのはお話ですよね。
私の落語の原体験は、小学校の図書室に並んでた落語のネタ本。一時期読み漁ってました。
そして、音声メディア。CDだったりラジオだったり。
寄席には行ったことないし、笑点すらもあまり見ない。つまり、文章と言葉でしか落語に接したことが無いのに、それを落語と認識してるのです。
岡田斗司夫のいう落語を、ラジオで聞いたり文章に起こして読んだ場合、それを落語として認識できるかと言うと否ですよね。
2.着物はただの服装でしかないですよね。
ちょいと落語から離れて茶道の話。「お前の鳥取ではそうかもしれないが」という突っ込みは無視します。
私、着物で茶席に入ったことありません。それどころか、鍋やオタマで代用して茶を立てた事すらあります。
それはそれで茶道的には問題ないのです。流派にもよるでしょうけど。
服装や道具にいい品を揃えることができるならそれに越したことはありませんが、代用品をつかったらそれはもう茶道ではない、なんてことはありません。
文中で桂米朝の言葉を引用して「背広を着て、万年筆とライターもって落語ができないか。落語家の自分としては『落語はできる』とはっきり言える。ただし、客がそれを求めていない。」その点に関して、落語の客が問題だってのには同意。
私がやってほしいのは、背広に万年筆にライターを使って落語をすること。それを見せて欲しい。
落語をぶっ壊す、落語の観客には一旦退場してもらうっていうくらいなんだから、背広に万年筆にライターの落語でいいじゃないかと。
ここでちょっと林家木久蔵について。
正月に見た林家木久蔵の落語。昭和初期の映画の話を延々。私にはモノマネ芸にしか見えませんでしたが、一緒に居た人はあれを落語と言うのです。
CMでやってる、洋装で「電子化なんていいんでんしか?」というネタは誰も落語とは言わない。落語ファンにだけわかる何かがあるんですかね。それとも本当に着物だけ?
もひとつ。大使閣下の料理人より。主人公の「フランス料理って何をもってフランス料理って言うんですかね」に対して師匠曰く「俺が卵焼きを作って出せば、それがフランス料理だ。」(仔細はあいまい)
xxだからooだ。って定義づけるのって難しいですね。
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